レゲエを通じて世界に広がった「ラスタファライの現在」をテーマに、長編ドキュメンタリー映画『FREEDIM』を監督した杉野啓基さん


左写真:『FREEDIM』のクルーと。左下、杉野監督

―――「ボクが第二のクロサワになろう!」

そう決意したのは、杉野さんが17才のときだった。世界のクロサワこと、映画監督黒澤明が亡くなったのは1997年。世界中から追悼メッセージがよせられた。創作の仕事をとおして世界に影響を与える映画監督という仕事をその時知った。「高校三年生で将来がはっきりと定まっていなかったところで、急に目の前に新たな世界が広がった。すぐに、これだ!と決めました」。

三重県うまれの杉野さんは、中学3年生のときに、先天性血管障害で脳内出血を患うも闘病生活を経て、奇跡的に障害もなく学校にもどることができた。勉学に厳しかった家庭で育ち高校は進学校に進んだが、家族は「一度きりの人生。やりたいことが見つかったら、それをやりなさい」と将来への理解を示してくれたそうだ。高校卒業後は2年間の派遣社員を経て、20才でロサンゼルスのコミュニティカレッジに留学した。「留学先ではTheatre of Artsを専攻しました。Theatreと言えば映画かな?と思って選んだ学部だったんですけど、そこでは舞台装置、音響、照明など、Theatre=舞台で、映画とは似て非なる事を学ぶことになりました」。どうしても映画に携わりたかったので、後にColumbia College Hollywoodに編入し、本格的な映画制作を学ぶことにした。

「アメリカに居るのだから、外国人の友達を作りたかったんです」。留学当初から揺るがない決意のひとつだ。その結果、エチオピア人、ベリーズ人、ジャマイカ人などいわゆる第3世界出身の移民の友だちを多く持つようになった。車の調子が悪く、困ったときに助けてくれたのは、ベリーズ出身のミュージシャンやその家族だった。空港に行くのに足がない。そんな時に早朝に送迎してくれたのは、年の差30歳にもなるジャマイカ出身のラスタファライの長老だった。「肌の色がちがっても、中に流れる血は同じ色さ」。そう語るラスタファライたちに刺激され、彼らの持つ特有の価値観に興味を抱いていったという杉野さんは経験則を語る。

「レゲエと言うカルチャーがここまで広がった背景には、歴史に翻弄されてきたアフリカ人奴隷たちの嘆きがあり、不正に対して声を上げてきた先人たちの生き様が反映されています」。ラスタファライとはジャマイカ人運動家のマーカス・ガーベイの抱いた思想運動で、奴隷の子孫たちに向け、アフリカ人としての誇りを取り戻し、いつの日か故郷アフリカに帰ろうと呼びかける趣旨の活動が発端となっている。「ラスタファライには、肌の色や人種に分別されない普遍的な愛がその思想の概念として根付いています。そんなメッセージを宿した活動ならば、宗教や政治で人々が分断され混迷の中にある現代社会において、明るい未来を拓くためのヒントになるのではないか?レゲエでよく聞くOne Loveという言葉がやけに胸に沁みました」。
2004年から作品完成まで13年を費やした『FREEDIM』、その制作動機を聞いてみた。

タイトルの『FREEDIM』とは、英語のFreedom(自由)とかっての奴隷たちの方言であるカリブ訛りの英語Riddim(音楽)を合わせた造語である。「当時買ったばかりの最新のビデオカメラを使って面白い作品を作ることが目的で、製作費は、100%自前で出資して、渡航費などは別に300万円ほどを要しました」。

帰国後、杉野さんは東京に拠点を構え、フリーランスの映像作家として創業。不安定な生活を送りながらも映像の仕事を地道に続け、資金を貯めてはロサンゼルスへ撮影に出向き、ラスタファライを生の声で学んだ。帰国して働いては海外へ行くという日々を数年間繰り返し、エチオピア、ジャマイカ、べリーズを訪れた。「2011年3月11日、ちょうどエチオピアの辺境地にいた頃でした。日本で東日本大震災が発生したんです。エチオピアではネット環境が安定せず写真が見られないため、十分な情報が得られませんでした」。その惨状を知ったのは、震災から1週間が経過した頃、ケネディ空港でジャマイカ行きの便にトランジットをしている待ち時間のときだった。

キングストンに渡って間もなくして、ジャマイカ人のレゲエ・シンガーのルチアーノ、トリストン・パルマー、マーシャ・グリフィス達が、震災の被災者にチャリティソングを作っている現場に居合わせることとなる。目の前の大御所アーティストの勇姿に、ラスタファリに共通する崇高な精神を垣間見たそうだ。「帰国後に、自分の無力さを実感した僕は、大災害で揺れる日本を見て、しばらくの間は自分の作る映像の意義が見出せず、悩んだ時期もありました」。

その後被災地、石巻に移り住んだ。6畳1間でトイレも水道も無いプレハブでの生活は、冬になると部屋の中の水分が凍結するほど寒かったという。そこを住居に2年半を過ごし、精神的、経済的に不安定な被災者により添ってカメラを回し続けた。「今すぐに消費する映像というよりも、未来に価値の出る映像を残したいんです」。第二作目のドキュメンタリー映画、『未来の教科書』は震災から10年を経る2021年に公開予定で現在編集中だと言う。

ドキュメンタリー映画の制作過程は興味深い。最初からある程度のシナリオができているのか、それとも制作中に着地点が見えてくるのだろうか?「一般的な手法は最初に着地点を描いて、そのためのパズルを集める。でも僕はちがう。短期的なシーンを撮る際に、自分の考える結論はある。でも人生なんて予想通りにはまず進まない。だから着地点は決めつけない。プロの映像作家なら避けて通りたい手法だと思います。でもカメラの裏で僕が迷っていることも含めて、そこにあるリアリティを映す。作品は僕の精神的な旅でもあるんです。例えば、『FREEDIM』制作中に東日本大震災が起きたが、ジャマイカのレゲエ・シンガーが被災者にむけてチヤリティソングを作るシーンに巡り会えたことなどは、多くの偶然が重なりあって収録できた奇跡ともいうべき事実で、計画して撮影に赴いていたら決して撮ることはできなかったわけです。ドキュメンタリーの醍醐味はそんな奇跡を目の当たりにできることですね」。

映画制作にかかる作業は膨大なものだ。例えば、映画の字幕を仕上げるためにはその裏に1300枚もの字幕画像がある。翻訳からモーショングラフィックまで、無数にある作業を仲間の助けによって進めてきた。しかし、最終的に全責任を負うのは監督なのだ。時に気持ちが折れたりしないのだろうか?「続けていることを諦めて放り出すのは簡単です。でもそれをしちゃうと自分は何者でもなくなる。今まで協力してもらった人たちの思いを失うことの方が怖かったです」。
『FREEDIM』は現在も数々の海外映画祭にノミネートされている。2018年11月に開催されたべリーズ国際映画祭には、ジャマイカ、ロス、そしてベリーズの田舎から古い友人たちが駆けつけて杉野さんの活躍を祝福したそうだ。「あいにく賞は逃したんですが、このプロジェクトを続けることで人種、国籍を超えたOne Loveの精神を体現できている実感を持てたことが何よりの至福でした」。

日本人のアイデンティティを胸に抱き、多様性に身を投じて、世界を飛びまわる38才。「時間ができたら嫁とジャマイカに行きたいです。自然が多いところでのんびりしたいですね」と笑顔で語る監督。日本各地での上映を目的にして5月中旬からcampfireでクラウドファンディングをスタートさせる。さらなる活躍を期待したい。

コンタクト

hiroki.sugino@highrockfilm.com
http://www.highrockfilm.com


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